JAZZを聞きに東京へ - 自転車で行こう

 平成7(1995)年1月、晴れた空の下を東京に向かって走っている。

 前年2月、休みが取れたので、名古屋から東へ走ることにした。

 まずは、輪行で名古屋入り。すでに日は落ちている。自転車を組み立て、ユースホステルまで走り、そのまま投宿。

 翌朝目を覚ますと、なんと!一面の雪!!まれにみる大雪で、名古屋市内は全域積雪した。これでは走り出せない。テレビの地元放送を見ていると、東の方は大丈夫そうだ。とりあえず、輪行して浜松まで行き、名古屋へ戻るルートをとることにした。

 自転車をばらし、輪行袋に詰め、浜松駅へ。舘山寺を見に、浜名湖周辺を走りに行く。

 走り出す前に、「せっかく浜松へ来たのだから」と、駅構内のうなぎ屋で鰻重を食べた。しかし、浜松は関東式で、関西人の私には、あっさりしすぎて「美味くないやん」と思った。

 浜名湖を離れ、名古屋に向けて1号線を西へ走る。国道の路肩には、除雪された雪が溶けずに積まれていた。

 豊橋を過ぎ、豊川市に入った頃、今回の大雪の影響が出た。交通マヒが起きていて、国道は大渋滞。車が全く動いていない。横をすり抜けるにも、路肩は積み上げられた雪が彼方まで続いている。前へ進めなくなった。途方に暮れていると、右に名鉄の小さな駅が見えた。ついに、自転車を断念。今回は、ここで輪行して帰ることにした。名鉄に乗り、豊橋に戻り、新幹線「こだま」で帰った。新幹線も雪の影響で、新大阪まで5時間かかった。

 

 翌年、再度挑戦。

輪行で、1月2日の朝に名古屋入り。すぐに、正月で車のいない道を、晴れわたった空の下、東京に向かって走り出した。熱田神宮の前を過ぎる。昨日は大勢の初詣客でごった返していただろう。世間はお屠蘇気分の中、自分は何をしているのだろうと、ふと思う。とにかく、昨年ひとコギも出来なかった名古屋を走り、一号線を東に向かう。

 突然、目の前に松並木の道が現れた。旧東海道だった。こういう景観が今も残っているのか。良いものを見た。しばらくすると、また突然、矢作橋に出た。若き日の豊臣秀吉が蜂須賀子六に出会ったという逸話の橋だ。私は歴史小説が好きで、とくに「秀吉」が好きなので、この偶然にワクワクした。間もなく、三度突然、岡崎城の前に着いた。徳川家康ゆかりの城。家康は嫌いだが、城は綺麗だった。今回の旅行は、JAZZしか頭に無かったので、これらの偶然が、すごい嬉しかった。

 やがて、昨年断念した名鉄の駅に着き、浜松まで輪行した。浜松を出て真っ平らな道を走る。携帯ラジオをつけダイヤルをNHKに合わす。「箱根駅伝」の実況を聞く。これから、その道へ向かうのだ。徐々に気分にスイッチが入る。

 ふと、富士山が目に入った。就活の時、新幹線の窓越しに見て以来。生で見るのは初めて。美しい。素直に感動した。この後、徐々に大きくなる姿を楽しみながら、ペダルを回した。

自転車旅のお決まり?○○最□端の御前崎を目指す。浜松から1号線を離れ、150号線を走った。御前崎灯台の他は何もなく、砂浜があるだけだった。そして、どこまでも広がる太平洋と水平線があり、地球は丸かった。

 150号線に戻り、今日の宿泊地の三保YHを目指す。「羽衣伝説」の三保の松原が楽しみだ。途中で焼津港に通りかかった。無数の大漁旗が、所せましと国道沿いに立ち並んでいる。海産物を買い求める駐車場待ちの車の行列がすごい。見ているだけで市場の熱気が伝わってくるようだ。

 夕方、YHに着く。もうすぐ日暮れなので、松原見物は明日にした。YHでのんびりし、テレビを見る。こんな旅をしているとテレビで一番気になるのは天気予報。明日は台風並みの荒れた天気になると男の人が告げている。「ま、天気予報も外れるかもしれんし」と自分を楽観させて、就寝した。

 翌朝、目が覚めると、しっかりとした雨。朝食を取りながらテレビを見ていると、この後、雨はさらにひどくなるらしい。すっかり気持ちが折れて、連泊することにした。といっても、せっかくだからと、YHで傘を借りて、市バスに乗って静岡駅に観光に行った。駅に着くと静岡県の在来線は一部不通の掲示板が表示されていた。構内の北外れの食堂で昼食をとる。日替わり定食をたのむ。500円台とは思えない品数と味に感動する。西側は不通なので電車で由比に向かう。サクラエビの名産地だが、あいにくの雨で、天日干しの光景は見られなかった。夕方、バスでYHに帰る。

 翌朝は、嘘のような晴天。さっそく美保の松原へ散策。綺麗な富士山が見える。今日は、これからあそこに向かうのだ。朝食を取り、YHを出発した。

 地元の生活道路を抜け、1号線に出て東進する。視界が広がると、富士山が目に入る。三保の松原で見た時より、デカい。長距離トラックが脇を通り過ぎて行く。さすが1号線だなあ。

 ちょうど昼に、三島に着く。四つの国道が交差し、新幹線の駅もある都会だ。ここで、しっかりと昼食をとる。さあ、いよいよ、箱根への約20?の登坂スタートだ。

 と、気負って出発したものの、しんどかった記憶がない。左手に構える、生の富士山に見とれながら、「自転車で来て良かった〜」と思いながら登っていた。

午後5時前、まだ明るいうちに芦ノ湖に着くことができた。さて、宿探しだ。目の前に観光案内所があったので、「よし!」と思い行ってみると、休業。

 「正月やもんな〜」「どうしょうかな〜」

 すると、坂の上手で旅館の法被を着て掃除をしている「番頭さん」って雰囲気の男性が目に入った。いかにも、高そうな老舗旅館という感じだが、背に腹は代えられず「泊まれますか?」と尋ねると「うちは、お一人様はお泊めしてませんが、知り合いの民宿、聞いてあげようか?」と、言ってくれた。

 実はこれ、とてもラッキーなことだったようで、数年後ある年配の自転車乗りと飲んだとき、同じような場面で、けんもほろろな対応され野宿したという経験談を聞いたことがある。

 さすが「番頭さん」の地元の顔が利いたのか、民宿から了解を得、坂の上の宿に向かった。

 夕食は他の泊まり客と同室。小さな子ども連れの家族と、年配のご夫婦と一緒に食事をとった。特に会話もなく、一人で食べた。翌朝、昨日の「番頭さん」にお礼に行こうと坂を下る。はたして、旅館先で掃除をしていらっしゃたので、お礼を言うと、「民宿の先、登ったかい?1号線の最高峰だから、行ってきな」と教えてくれた。

再び坂を上る。1号線最高峰は普通の国道で、さらに霧の中。「ふ〜ん」って感じ。短くても「ぜえぜえ!」言いながら登る坂の方が達成感があるのか?でも、「ここまで来た〜」という思いはあった。このまま、国道を走るのもどうかと思い、旧街道を下ることにする。すぐに「箱根の関所跡」に着く。石畳の道が延びていた。後で気づいたが、ここは「箱根駅伝」のコースだ。「山の神」が走る道。檄坂を下りると小田原の街。程なく小田原城公園にでた。小田原は戦国時代に素浪人だった英雄「北条早雲」が一代で乗っ取り築いた国。この城も綺麗に復元されていた。ゆっくりと休憩して景色を楽しんだ。

 さて、次は湘南。1980年頃に学生時代を生きた私にとって、特別な場所。ワイルドワンズ、サザン、ブレッド&バター、BOATHOUSE。茅ヶ崎を超え、東に行くにつれ、だんだんと「そんな空気」が濃くなっていく。湘南は、正月というのに「海の家」があり、サーフショップが開店中で、サーファーが海で跳ねていた。湘南海岸を過ぎると、左手に江ノ島電鉄の線路があらわれた。しばらくすると、電車に抜かれた。「俺たちの旅」等のドラマとかで見ていた「江ノ電」だ。「うわ〜江ノ電や〜」とひそかに盛り上がっていた。

 湘南の景色を堪能した後、稲村ヶ崎で山手へ向かった。住宅街の狭い道を走り、丘を越えると横浜にについた。桜木町のYHにチェックインを済ませ町に出た。「オフコース」の「秋の気配」に出てくる「港が見下ろせる小高い公園」がある。

 中華街へ向かった。思えば、「中華街」、長崎に自転車で行ってチラ見した時が最初、横浜が今回、地元の神戸には、ず〜っと後に家族と行ったのが初めてだった。入口で「崎陽軒」の焼売が売られていたが、これは横浜だけみたいだ。

 始めての中華街での食事。一人なので、どんな店に入ったら良いのか解らず、ぶらぶらする。結局ファストフード店みたいな所へ入る。「麻婆豆腐」みたいな豆腐料理を期待して「杏仁豆腐」を頼んだ。もちろん、正しくデザートの「杏仁豆腐」が提供された。満たされない腹のままYHに帰った。

 翌朝。8時半頃出発。程なくして、偶然、東京タワーに着いた。偶然にも東京タワーに出会えたのだし、「せっかくだから上ってみよう」と思ってタワーに入った。「どうやって上るのかなあ?」と思案していると、土産物屋のおばさんが「1500円もするし、大したこと無いから、やめとき!」と、かなり強力にアドバイスしてくれた。私としては、初めての東京タワーだし、どれくらい大したこと無いか見たい気もしたが、そこまで言われると逆らうこともできず、「ありがとう〜」と言って、外に出た。

 すると目に入ったのが、愛読している「スウィングジャーナル」の看板!!

 普段なら絶対こんな事はしないのだが、自転車旅行では少し人が変わる私。これから向かう吉祥寺への道が聞きたくて、スウィングジャーナル社の扉を開けた。ビルの階段をのぼり、社の扉を開け、受付に行くと、女子社員(編集者?)の方が、怪訝な顔で出てきてくれた。ジャージパンツにマウンテンパーカーを羽織った30代の男。どこをどう見ても、会社の雰囲気と合わない。急に気後れしつつも「関西から自転車できました。吉祥寺に行きたいので、道を教えてくださいませんか」と告げると、「お待ちください」と言い、彼女は奥に引っ込んだ。

 しばらくして、ツイードのジャケットを着た中年の男性が出てきた。スッと名刺を出され拝見すると、

「ギョエッ!編集長さんやん!」。

 ビビリまくりながら「あの吉祥寺のジャズ喫茶に行きたいんです」というような話(このあたり何を言ったかはっきり覚えていない)をすると、A4の紙に、説明しながら地図を書いてくれた。編集長は、すごく丁寧な案内をしてくださった。細かい地名はピントこなかった(ここらは関西人が他圏の方に案内するときも、同じかな〜)が、編集長が書いてくれた地図と説明で、何とか行けそうな気がした。その後、編集長自ら見送りに来ていただいて、社屋前で写真を撮って貰った。

地図を頼りに、こんな旅行では、めったにない延々と続く都会の道を走ると、小説ではよく殺人事件の現場になる吉祥寺の公園をすぎて、駅前に出た。今夜泊まる駅前のシティホテルにチェックインし、自転車を預かってもらう。「いよいよJAZZ喫茶の聖地に向かうのだ」と、緊張する。

 当時私はJAZZとともに「JAZZの本」もよく読んでいた。そんな中の「吉祥寺JAZZ物語」を読んで「よし!東京行きは、吉祥寺でJAZZ喫茶めぐりをしよう」と目標を決めた。

まずは、寺島靖国さんの「メグ」に向かう。狭い階段を上り、「MEG」の扉を開ける。暗〜い店内。聞こえるのは、アコースティック楽器の音だけ。受付を済ませコーヒーを頼み座席に座る。やがて飲み物が運ばれてくる。店員は、ここまで余分な愛想を一切しない。一人モダンジャズを聴く。まさに(本で描かれたとおりの)ジャズ喫茶!と思った。

 続けて大西米寛さんの「A&F」に向かう。ここも雑居ビルのような階段をのぼる。暗い店内。愛想のない店員。期待通りの「ジャズ喫茶」。常連ならリクエストの一つもするところだけど、こちらは「ジャズ初心者でジャズ喫茶デビュー」。押し黙って、何ていう曲だか判らない、たぶん名盤を聞いていた。

 続いてCDを買いに、「ディスクユニオン」へ。関西では手に入らないレア版を探しにゆく。寺島さん溺愛のジョニ・ジェイムス他3枚を買う。

 店を出ると、日も良いくらいに暮れていた。これから野口伊織さんの店に行くのだが、こちらはお酒の店。内装も明るく、おしゃれ。客層も女性やカップルが多い。店員の愛想も良い。カウンターに座り、これまでの経緯を話すと、「普段はリクエストとか受けないんですが」と言いながら、先ほど買ったCDを掛けてくれた。店を出るときは、マスターがシェフにまで声をかけてくれて、三人の方に店先まで見送ってもらった。

 夜、ホテルで寝ていると、大きな揺れに起きあがった。震度4。それまで大した地震を経験したことがなかったので「聞いてたとおり関東は大きな地震があるんや〜」と思った。

 翌朝、山手線〜新幹線を乗り継いで伊丹に戻った。そして数日後の1月11日「阪神淡路大震災」が起こった。被災し、住んでいたアパートがつぶれ引っ越しをすることになった。

 2月号の「スウィングジャーナル」の巻末のコラムで、編集長が私のことを書いてくださった。嬉しかったな〜。さすがにこの本は、今だに手元にあります。