脱北者の元作家が送る波乱万丈すぎる人生 日本で生まれ海を渡り「党員」になった末に

 下記は、2018.8.23 付の 東洋経済オンライン に寄稿した、村田 らむ 氏の記事です。

                        記

 これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第40回。

前職は北朝鮮朝鮮労働党の作家

 フリーランスで働く人たちの多くは、もともと別の職業についていた人が多い。

 サラリーマンだったり、公務員だったり、とさまざまだが、金柱聖(キム・ジュソン)さんほど珍しい職業についていた人はいないだろう。氏の前職は、北朝鮮朝鮮労働党の作家だった。

 作家と言っても、日本の作家とはずいぶんちがう。作家たちは党の宣伝扇動部傘下の朝鮮文学芸術総同盟の朝鮮作家同盟に所属する。

 作家たちにはランクがあり、トップに登りつめると「金日成桂冠作家」と呼ばれ人間国宝のような扱いを受けるそうだ。

 彼らが書いた作品は作家同盟の機関誌に掲載される。ジャンルは「学習用」か「宣伝扇動用」の2種類しかない。

 目指すところは「文学の面白さ」ではなく大衆を扇動し、宣伝動員することだ。金柱聖さんも、祖国(北朝鮮)のすばらしさを訴えるような文学を書いていた。

 結局、金さんは作家同盟を辞め、その後脱北をして現在は韓国に住んでいる。講演会やテレビ出演をするため、韓国中を忙しく回っている。そのかたわら日本向けに北朝鮮の実態を語った『跳べない蛙』(双葉社)を出版された。

 今回は双葉社の応接室で、金さんがどのような人生を経た結果、現在に至っているのか話を聞いた。

 「生まれは日本の関西地方でした。おじいちゃんが朝鮮総連で委員長をやってる家柄で、幼稚園から朝鮮学校に通ってました」

 朝鮮学校では、北朝鮮という言い方はしない。朝鮮民主主義人民共和国であり、偉大なる『祖国』だ。

 「当時は韓国に対しては馬鹿にした感情がありましたね。韓国はアメリカの侵略地、植民地だって教えられていました。

 日本に対して反感はなかったです。日本の文化に染まっていましたから。天才バカボンとかデビルマン仮面ライダーなんかが大好きでした。ただ、日本人の子どもたちにいじめられたことはあり、個人的に恨みに思っていたことはありました」

 一方で周りにいる大人たちは、

 「日本では在日朝鮮人は差別される。普通の仕事をするのは難しい」

 と口にしていた。

 実際、金さんの父親もまっとうな生き方をしている人ではなかった。母親は金さんが小さい頃に家を出ていってしまっていた。

 「お父さんは人生の裏街道を行くヤクザ的な人でした。ただ可愛がってはくれました」

 父親は優しくしてくれたし、金さんも父親のことは好きだったが、たまに気が狂ったように暴れた。突然出刃包丁を振り回すこともあったという。

 そのため、小学校3年生のときには、岡山県にある叔父の家に籍を移した。叔父叔母からは、

 「私たちがお父さんお母さんですよ。お父さんのことは忘れなさい」

 と言われ、2年くらい一緒に住んだ。

 平穏で幸せな日々だった。

 「ある日突然、父親から帰ってこいと言われました。父親は再婚してちゃんとした生活をしているから、と。もちろん、おじおばは反対しましたが、最後は祖父が私を連れ戻しに来て、結局帰ることになりました」

 父の再婚相手はお金にゆとりがある人だった。実家はリフォームされてきれいになっていた。下着は高級品でお小遣いも何千円もくれ、学生服も良い生地であつらえてくれた。

 父親は相変わらずたまに暴れたが、そんなときは継母と一緒に家出をした。金さんは生まれてこの方知らなかった、母親という存在を得られてうれしかったという。

祖父祖母と共に北朝鮮

 それなりに幸せな日々だったが、中学2年のとき、祖父と祖母が北朝鮮に帰ることになった。祖父は金さんを

 「祖国へ連れていって幸せにする」

 と断言した。

 父親、継母はもちろん大反対だった。父親は怒鳴るし、継母は泣いて行かないでくれと頼んだが、結局は祖父祖母と共に北朝鮮に行くことになった。

 「私の泣き所はおばあちゃんでしたね。母乳を飲む時期から、おばあちゃんがずっと育ててくれたので。おばあちゃんに行こうって言われたら、行くしかなかったんです」

 そして金さんは中学2年のとき、万景峰号(マンギョンボンゴウ)に乗って、北朝鮮に移住した。

 帰国した後も、継母は金さんの成長を見計らって洋服やプラモデルなどなど、よく荷物を送ってくれた。

 「すごい愛ですよね。一度、エレキギターを送ってくれたこともありました。北朝鮮エレキギターが何台もない時代です。秘密警察に『なんだこれは?』って言われて。結局、軍団司令部傘下の芸術宣伝隊という楽団に寄付することになりました。代わりにお米とかをもらってね。

 ただ、それから4〜5年経って父と離婚した継母とは、それきりになってます。もしもう一度会えるならば、お礼を言いたいです」

 北朝鮮に帰国してすぐ、祖父がガンで亡くなってしまった。金さんと祖母は、父のおじの家で生活することになった。

 おじは金さんに、金さんの父親に「物品を送ってくれ」と手紙を書けと強要した。

 それが嫌で一度、父親に

 「おじに無理やり手紙を書かされている」

 という真実の手紙を出したところ、手紙を片手におじが金さんの前に現れた。

 「なんだこの手紙は!! クソガキ!!」

 と怒鳴られ、ビンタされた。

 「私はたしかにポストの中に入れたんですけどね。おじが地域の行政委員会(日本の公務員のような存在)に私が手紙を出したら俺のところに持ってきてくれと、手を回していたんでしょうね。完全に違法行為ですが……」

 おじとはまったく反りが合わず、高校を卒業した後に家出をした。

 友達の家を数カ月ずつ渡り歩いて生活した。そのうち体育団のバレーボール部にスカウトされた。活動するうちに、党の幹部に

 「もったいないから、勉強をしろ」

 と言われた。

 そこで大学に進み、寮に入ったものの、そのとき金さんは何も持っていなかった。

 「北朝鮮では親類縁者のない人には無料で供給品がもらえます。ただ、私の場合は、おじが勝手に私を自分の籍に入れてしまったんです。だから供給品はもらえませんでした」

 まず、布団がなかったため寮の友達の布団に入れてもらった。

 服も、北朝鮮では生地を買ってあつらえるのが普通であり、商店などでは服は売っていない。学生服を買うお金もなく、いつも作業服のような服を着ていた。

 必要なときは友達から、背広やズボン、ベルトを借りて着ていた。サイズが合わず、みすぼらしいありさまになった。

いとこが、訪問団として北朝鮮にやってきた

 1981年に日本に住むいとこが朝鮮学校を卒業し、訪問団として北朝鮮にやってきた。

 久しぶりに会ったいとこは、そんなみすぼらしい格好の金さんを見て涙を流した。

 反りが合わなかったおじは、金さんが家出をした後は勝手に金さんの父親に手紙を書いていた。

 「悪さばかりするので、警察にお金を渡さなければならない。至急送ってくれ……とかすごいデマを言ってたんです。おじは本当に最低の人間でしたね」

 ホテルで面談中、いとこは突然、金さんをトイレに連れていった。そこで

 「なんで3年も日本に連絡をとらないんだ? お前の父親はひどく心配している」

 と言われた。

 「事情をやっと話せました。いとこはテープレコーダーを持ってきていて、すべてを録音して父親に伝えました。それからは父親が大学に直接、服や毛布などを送ってくれるようになりました」

 大学を卒業する間際になり、金さんは大学の教師になれることになった。それは幸運だったわけではない。セイコーの腕時計をワイロにつかませたのだ。ただワイロをつかませるにしても、資格がなければ教師にはなれない。

 金さんには1つ難点があった。母親のデータが何もなかったのだ。そこがハッキリしないと教師にはなれないと言われた。

 「お父さんに連絡すると、すぐに本当のお母さんの名前や住所を送ってくれました。それではじめてお母さんが生きていることがわかりました」

 実母は関東に住んでいた。日本人と再婚して暮らしていた。名前と住所を知り、それで大学の教師になる道が開けた。それで十分だったのだが、せっかく本名と住所がわかったので手紙を書いた。

 すると、返信はすぐにきた。そうして実の母親とまた縁がつがなった。経済的支援もしてもらえた。

 ただ、悲劇が起こった。

 父親が刑務所に収監されてしまったのだ。父親は、刑務所から母親に手紙を書いた。

 「手紙は、『俺が拘束されている状態だから、自由になるまでお前がきちんと面倒を見ろ』という内容だったんですよ。実のお母さんの旦那さんは、私からの手紙はまだしも、元夫から手紙が来るのは面白くないじゃないですか。しかも刑務所の中からときている。結局それが原因で離婚してしまったそうです」

 そんな父親は1995年、阪神・淡路大震災で亡くなってしまった。

 実の母親とは、現在も交流がある。

大学の体育の教師になったが…

 そうして、念願かなって大学の体育の教師になった。ちなみに北朝鮮は大学2年までは体育の授業がある。大学には女子バレーボールチームがあり、チームの監督も兼ねていた。年に2回、全国大会があり、それに向けて練習をしていた。

 北朝鮮の入学方式は国家計画制度に基づく非常に厳しいものだ。

 しかし、大学には特例入学というのがあった。バレーボールの教師は、フリーパスで優秀な人材を入学させられる権利があるのだ。

 金さんは優秀な女性を見つけ入学させることにした。両親の元に行ってお願いもした。ところが大学の学長はその女性ではなく、党の幹部の娘を特例入学の対象に選んだ。

 「私は両親に会いに行って『連れていきます。お任せください』って言ってますからね。立場ないですよ。学長室に行って『てめえこのやろう』ってケンカになって、椅子を投げつけました」

 日本ならば一発でクビになりそうだが、北朝鮮では学長に教師を辞めさせる権利はない。党が人事権を握っているのだ。

 元戦争孤児だった党の書記に、

 「お前も孤児同様の立場なのに何をやってるんだ? ヒラの教師が学長に手を上げるのは間違っている。どうする?」

 と聞かれたので、金さんは

 「辞めます」

 と答えた。

 「そもそもちょっと辞めたかったんですよ。学長と反りが合わないのはもちろんですが、自宅から学校までの距離が遠くて。自転車で1時間くらいかかるところに住んでいたので、大変だったんです。冬場は道路が凍ってしまってツルツル滑りますしね」

 しかし、好きな職業にはなれないと同じく、職業を辞めるのも自由にはならない。党としては幹部登用原則として、一度任命した人は辞めさせてはいけない。

 「『これは国家の任務だ。国家があなたにさずけた社会的地位は最後まで果たさなければいけない』となるわけです。『学長と仲が悪い』だの『学校まで遠い』だのは理由にもならないんです」

 ただし、個人意思をまったく無視するわけではない。党委員会の人事権を決する会議が6カ月に1度あるため、そのときに辞めるしかない。

 それまでに党委員会に呼ばれて、反省文を書かされる。小さな事務所に閉じ込められ、紙とペンを渡され、鍵をかけられる。

 「自分が堕落したので辞めます……」

 などといった内容を書かされる。字が下手だと、何度でも書き直しさせられる。

 「トイレも自由には行けなくて、行きたいときは『トイレ−!!』って叫ぶんです。用を足してるときも逃げ出さないように、トイレの前に見張りが立ってるんです」

 これで晴れて辞められるか……というとまだダメだった。タイミングよく党委員会の会議がない場合は、強制的に重労働を課せられる。

 金さんは港に行って働かされた。

 「石灰石を運ぶ輸送船に行かされました。大まかなところはクレーンですくって作業をするんですが、クレーンでは取りきれない部分があるんです。そこへ私たちがパンツ1つで入っていって、スコップで石灰石を掻き出す作業をするんです。タオルで頭と口と鼻を防いで何時間も作業をしました」

 そこで働いているのは主に、民法や刑法ではさばかれない程度の軽犯罪をおかした人だった。

 とある教師は生徒のお尻を触ったのだが、その生徒の親が党幹部の娘であり、問題になってここで作業することになった。

 倉庫の管理人は、管理をしているときに党幹部が倉庫の中の物を不正に持ち出していった。本人は悪いことはしていないのだが国家横領罪になって強制労働をさせられた。

 夜の7時から、夜中の2〜3時まで働く、非常に苦しい時間帯の作業を割り振られた。

 仕事が終わると全身真っ白だった。鼻の穴や耳の穴まで粉が詰まり、髪の毛は針金みたいにバリバリになった。

 そのほかにも、浜辺ではまぐりを拾うという労働もやらされた。

 こうした強制労働を経て、やっと念願かなって教師を辞めることができた。

同じヒエラルキーの仕事から選ぶ

 次の仕事を決めることになるのだが、北朝鮮には「社会的地位は保たなければならない」というルールがある。つまり、同じヒエラルキーの仕事から選ぶということだ。

 「私は文章を書くのが好きだったから、作家同盟に行きたいと言いました」

 運良く空きがあり、金さんは25歳のときに作家同盟に入った。

 しかし、作家同盟に入った時点では作家ではない。はじめは「群衆文学通信員」という肩書で、次に「候補同盟員」に昇格。そうすると国家から「現職作家」という称号を与えられ、本業のかたわらに作家活動を行うことができる。

 作家同盟で経理や雑務などの仕事をしつつ、冒頭にも書いたような北朝鮮を称える物語を書いた。

 しかし、金さんが思い描くようには、作家の道は開けなかった。結局、出世するには朝鮮労働党員でなければならないということに気づいてしまったのだ。

 金さんは、最後に従軍慰安婦の作品を書き終え、ペンを折った。

 これまでにもちょくちょく、党員という言葉は出てきたが、北朝鮮では党員と非党員の格差は大きい。

 学習会などでも、大事なことを決める際は、非党員は退出を命じられる。つねに、「非党員が党員にあこがれる」ようにシステムが作られているのだ。

 党員には、過酷で重要な労働をしている人が選ばれやすい。たとえば、農業などだ。

 「北朝鮮は労働者階級の国なので、あえて労働者になるというのは絶対に反対されません。むしろ褒められます」

 街灯の火を消す仕事からはじまり、清掃車の運転、アスファルトの舗装、石垣を積む仕事などさまざまな労働をした。

 「ただ働くだけではなく、人より早く出て働きはじめ、人より遅く退勤しました」

 3年我慢すれば党員になれると踏んでいたのだが、それは甘い考えだった。在日朝鮮人であることもハンディキャップになった。

 厳しい労働者生活を9年間続けたある日、出勤すると、

 「党書記が呼んでいるよ」

 と声をかけられた。行ってみると、その場で

 「朝鮮労働党の指示であなたを党員にします」

 と言われたという。

 「膝がガクンと来て、そのまま号泣しました。うれし涙なんてわかりやすいものではなかったですね。ついにやり遂げたんだという達成感と、なんで俺はここまでしたんだろう?という思い。とても複雑な感情でした。たかが紙切れ1枚のことなのに、すごく誇らしいんですよ」

脱北、強制送還

 そんな苦労をして手に入れた“労働党員”としての立場だったが、2006年に手放すことを決意する。手放すのは立場だけではなく、北朝鮮そのものだ。つまりは脱北である。

 仕事の過程で違法に中国に上陸したときに感じた、開放感が忘れられなかったのだ。しかし、最初の脱北では捕まってしまい、強制送還されてしまった。

 「北朝鮮は、民法刑法で裁かれると同時に、公民権が剥奪されるんです。つまり国民じゃなくなる。死んでもいいってことです。生き残ったら、再度人間としての資格をあげようという、そういう国なんです。そのときに体験した1年は本当に地獄でした」

 刑務所にもさまざまあり、国際人権擁護委員会に登録されている刑務所は比較的楽な措置がなされる。外国人が来るときにはおいしいものを食べられるし、囚人服もいいものだ。

 逆に労働教化所と呼ばれる刑務所はあまりに過酷だという。

 「労働教化所は警察組織が統制するのではなく、囚人同士が統制しているんです。その規律がとても厳しい。元警察や党幹部だった人が入ると、『今までよくも搾取しやがって!!』と殴られてほぼ死んでしまいます」

 金さんの場合、労働教化所で懲役6年になる可能性があった。そうなれば、ほぼ間違いなく死んでしまう。

 「持っている人脈、アイテム、スキルを全部使って罪を軽くしました。なんとか強制労働4カ月にまで減刑したんです。ただ、強制労働所にも知り合いはいて、『兄貴、何やってるんですか?』とか言われて、恥ずかしかったですね」

 そんな死ぬような体験をしたら、もう二度と脱北はしまいと思うような気がする。ただ、金さんは刑を終えた2カ月後、再び脱北をした。

 「強制送還された人は、みんなキモが据わってましたね。一度外の世界を見た人は、その世界が忘れられない。野獣が肉の味を知ったら忘れられないのと同じでしょうか?」

 そして2009年、金さんは夜中の川を渡り中国へ脱出した。

 中国では、朝鮮族のブローカーに監禁された。彼らは「北朝鮮の女性を売り飛ばす」などして稼ぐ、どす黒い人たちだった。彼らにとって、在日朝鮮人である金さんは「金持ちに違いない」という印象だったのだろう。

 「日本にいる知り合いが10万円を送ってくれることになりました。しかし、『それでは足りない。もっと送ってもらえ』と強要されました」

 朝鮮族の人たちは人脈を使って日本の親類縁者の連絡先を得て、

 「中国でつかまっているから、金を送れ」

 と勝手に脅迫電話をし始めた。

 親類は金さんが金のために自作自演をしていると誤解し、お金を送らなかった。

 「監禁が続き『もう殺せ!!』と朝鮮族の人たちに言いました。脅迫してももう意味ないよって。女は嫁に行くとか使い道があるけど、男にはないですからね」

 すると、朝鮮族の人に中国の大連に行けと言われた。韓国人が経営している魚の加工工場があるから働かないか?というのだ。過酷な労働であることは目に見えていたが、金さんはその話に乗った。

 午後3時のバスで大連に行く予定だった。バスを待っていると、午後2時に近所にあったキリスト教会の伝道師の若者があらわれて

 「韓国に行きましょう!!」

 と話しかけてきた。

 「まさに神の助け。奇跡が起きたんですね。それで私は韓国に行くことになりました。そのときすでに、40代初めになっていました」

「今は幸せですね」

 韓国に着いたときは感激だった。とにかく何を見ても何をしてもウキウキした。

 しかし、実際に社会に出た後、何をしていいのかわからなかった。歳も歳だし、就職もできない。そんな折、国から“北朝鮮を知らせる奉仕活動”をやらせてもらえることになった。

 「以来、ほぼ休みなく働いてますね。学生相手の講演会だと、1講演2万円くらい。企業がバックについた講演会は、1時間5万円はいただけます。民法テレビやラジオにゲストで出演することもありますし、ネットTVにも週4回出ています。日本でも北朝鮮関連ニュースにコメントを寄せることもあります」

 現在、金さんの収入は月に30万〜35万円だという。韓国の月収は、17万〜20万円が一般的なので、まずまず稼いでいるほうだ。

 「ただ、講演会は1日200キロメートルくらい移動したりします。電車が使える場合は楽ですが、片田舎の学校だと自家用車で行くことも多いです。年々体力は落ちていますから、厳しくなってきますね。1つの仕事に絞って固定収入が欲しいのですが、それも難しいですね。

 ただ、それでも脱北して韓国に渡って良かったと思います。今は幸せですね」

 金さんは北朝鮮でペンを折ったが、最近では再び書き始めている。

 日本で発売した『跳べない蛙』は北朝鮮での作家生活を中心につづったノンフィクションだが、これからはフィクションの作品も書いていきたいと思っているという。

 強烈な人生を送ってきた氏がつむぐ物語はどのようなものなのか、とても興味が湧く。